<蜂蜜酒をふたりで・4>




夢を―― 視ていた。 ティーエはひとり、水面の上を静かに歩いている。
歩を進めた跡には、無数の波紋が広がってゆく。
宙を仰ぎ見れば―― きらきらと輝く満天の星空。 それは、幼い日に師が視せてくれた“宇宙”に良く似ていた。
ならばこの足許は―― この水面は、地球なのだろうか。
大陸が存在する、母なる惑星なのだろうか。
そんな事を考えながら、ティーエはふと歩みを止め、辺りを見渡す。
静かだった。誰もいない、ティーエしか存在していないような、静の世界。
精霊すらも存在しないような、ある種、無の世界だった。

星がひとすじ、ティーエの視線の遥か先を落ちてゆく。それは水面に落ちた瞬間、パッと弾けるように輝いた。
その光の眩しさに、ティーエは目を眇める。
光の中に、物体のオーラが視えた、気がした。しかも生体の発するそれに、とても良く似たオーラ…。
この静寂の世界に、ひとがいるのだろうか。しかも、星が落ちて来たその場所に、ひとが現れるなどとは…。
ティーエは信じられないような思いで、その光に近づく。

光はゆらゆらと揺らめき、やがて人間の女の形を取り始めた。
スラリとした肢体、長い髪…その外見から判断するに、かなり若い娘のようだ。
(あなたは…誰?)
薄紅色の花のようなオーラが、その“人物”の顔を隠している。ティーエはこの人物に、 既に会った事があるような気がして、それでも確信は持てずに、躊躇いながら問う。
ティーエの問い掛けに対し、“彼女”は、そのしなやかな腕を上げ、差し出す。ティーエは思わず彼女の“手”を取った。
やわらかなエネルギーの流れが、ティーエの体を駆け巡ってゆく。
この、感覚。どこかで知っているような…。
だが、ティーエにはどうしても思い出す事が出来なかった。あと少し、もう少しのところで、 その答えに手が届きそうな歯痒さに、ティーエが内心苛ついていると、彼女はティーエの掌から自身の手 ―― 冷たく小さなそれを離し、くるりと背を向けると、ティーエの側から離れて行こうとした。
(あ…待って―― 待って下さい)
立ち去ろうとする彼女の体を、とっさにティーエは後ろから抱きすくめ、自らの許に留め置こうとする。
すると彼女は、抗うと思いきや―― 意外な事に、ティーエの腕の中で体を反転させ、 その小さな顔をティーエの胸元にそっと寄せたのである。
霊峰ラテルに咲く、小さな白い花のような匂いが、ティーエの鼻腔を甘くくすぐる。
どこかで、逢った気がする。
だがどうしても―― あと少しで思い出せそうなのに、思い出す事が出来ない。
ティーエは思わず宙を仰ぎ見た。その視界に飛び込んでくるのは、ただただ満天の星々のみ。 そしてそれらは、ティーエに何も答えてはくれないのだ。
腕の中のやわらかな存在は、ティーエの肩に小さな頭をそっと預け、芳しい吐息をひとつ吐くと、霧のようにその姿を消してしまった。
―― あ…!)
ティーエは空になった両腕をまじまじと見つめる。
かすかに残る、あたたかな温もり。薄紅のオーラ。…花のような吐息の匂い。
すべて、全て知っている気がする…なのに、何故か思い出せない。
まるで記憶が、その箇所だけスッポリと抜け落ちてしまったかのように。
けれど―― あの感触には、ティーエ自身の体が、意識とはまた別のところで、覚えていた、馴染んでいた…ように思う。
あまりにもしっくりと手に腕に胸に馴染んだ、あの感触、温もり、そして匂い。
何故思い出せないのか。
思い出したくないのだろうか、ともティーエは考える。
“彼女”が自分にとってかけがえの無い、誰よりも大切なひとで―― そして今はもう亡く、思い出すのが辛い故に、 記憶が呼び起こされるのを拒否しているのかもしれない。
―― 否。そんなはずは無いと、ティーエはゆるゆると頭を振る。

何故なら―― 『これ』は、幻視だからだ。
ありもしない、夢。ティーエの無意識が見せる幻。
だが、その幻は、確実に現実のどこかに繋がっている。ティーエは何の証も無いが、そう確信していた。
その理由は―― 腕の中で消えたあの娘。どこかで逢った事のある―― 否、もう既に手の届くところにいる存在。
その娘の正体は―― おそらく。

―― ラクシ。

その名を『思い出した』途端に、ティーエの足許の水面が、はらはらと崩れ、ティーエの身体を呑み込む。
堕ちる感覚を覚えながら、その途中で半人半馬の良く見知った顔を見た気もした。肩まで届く黒髪を持つ人物を、 触れたら折れてしまいそうな華奢な人物をも、見たような気がした。
だがそれらを、ティーエは思い出せなかった―― 否、記憶の奥底に封じ込めておこうとした。
懐かしい、けれどどうしようも無く恨めしく、忘れたいと願う気持ちももある―― だから、もう振り向く事は無い。
もやもやとした感情を抱いたまま、ティーエの魂は、光の差す方へと“堕ちて”行く。ほろりほろりと、透明な涙を流しながら。


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(2007年11月06日)







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