<蜂蜜酒をふたりで・2>
船室のひとつひとつは、あまり広くは無い。
けれども、乗船する客のために、広くは無いが快適に過ごせるような作りの部屋になっていた。
太陽帝国の首都、アステ=カイデで造られた船である。どこの国の船よりも、立派で頑丈なつくりの船であった。
甲板を歩いても、板の軋む音とは無縁である。
多少の荒波にも、船が大きく揺れる事も無い。
身重のマンレイドが、ほとんど悪阻を訴えないのも、もしかすると船の構造がしっかりしているためかもしれない。
そんな堅固な船の通路を、ティーエはラクシを抱き上げたまま歩いている。
ティーエはあまり足音を立てて歩かない。
別段忍び足をしている訳でも無いのだが、おそらく一種の癖のようなものだろう。
パタパタと軽快な足音を立てて動き回るラクシと対照的だった。
しかしそのいつもの癖が、今は却って好都合なように、ティーエには思われた。
眠るラクシを抱き上げて歩く姿を、他の人間に見られたくない―― それがたとえ、兄のように慕うボイスでも、だ。
ボイスにも、そしてマンレイドにも、ティーエとラクシが恋仲なのは知られてはいる。だが。
どこか、後ろめたく感じるのは何故なのだろう。
人前で彼女と触れ合うのには、何の抵抗も感じないのに、それが今は非常に後ろめたさを感じている。
ティーエは、自分の心が解らなかった。
可愛い恋人を、他人に自慢したいような気も、する。
けれどその一方で、自分だけの恋人でいて欲しいと思う気持ちも、確かに存在するのだ。
それは微笑ましい独占欲であったのだが、ティーエ自身がそれと気付かない。
知らないが故に、胸を悩ましく締め付ける痛みに、ティーエは僅かに眉を顰めた。
ラクシの、ほのかに紅い唇が、無意識のうちに窄められている。
その仕草は、口付けを請うているようにも見え、ティーエはそっと、自らのそれを、ラクシの唇に触れさせる。
愛らしい小さな花に、唇を寄せたような、そんな感覚に陥ったティーエは、唇を離した後、じっとラクシの顔を見つめた。
口付けされた事にも気付いていない、無垢な寝顔。
その姿に、ティーエは更に後ろめたさを感じるのと同時に、強引に彼女を抱いてしまいたいという衝動が、
身体を貫くのを感じた。
ティーエは目を瞑り、そっと頭を振る。今浮かんだ、あまりにも強い欲を振り払うかのように。
そして、一旦俯いてから顔を上げ、目を見開くと、歩く速度を速めながら、ラクシの部屋へと歩みを進めた。
あまりにも長い間、彼女に触れているから、色々な悩ましい考えに頭を支配されるのだ。ティーエは自分で、そう結論付けた。
ならば、眠りに落ちた恋人を、一刻も早く寝台に横たえてやった方が良いに決まっているではないか。
長時間、潮風に当てられていると、体を冷やしてしまう。現に、ティーエの腕の中のラクシの体は少し冷えて、
その肌がひんやりとしている。
その事に今更ながらに気付いたティーエは、自分が羽織っていた薄手の肩掛けで、そっとラクシの体を覆った。
頭の中が非常に混乱している、とティーエは思った。
普段体温が高い人間でも―― そう、ラクシのように―― 眠りに落ちると、体温は少し低下するのが当然である。
その上、潮風に吹かれているのだ。体温が奪われる事に、真っ先に気付くべきではなかったか、とティーエは反省する。
薬師たる自分が、そんな単純な、当たり前の事に気付くのが遅れるなんて。ティーエは、薬師としての理性よりも、
自分の劣情が勝ってしまった事実を、深く恥じた。
誰に恥じる訳でもない。ただ、自分が妙に許せなかったのだ。
ラクシの船室の戸を器用に開け、ティーエは部屋の中に入った。
両手が塞がっている状態であるため、ティーエは唇で静かに呪を唱え、手を使わずに戸を開けたのだった。
ティーエの腕力では、片手でラクシの体重を支える事は出来ない。両腕で抱き上げる分には、全く問題は無いのだが。
やれやれと頭を振りながらも、ティーエは抱き上げたラクシの体を、そっと寝台の上に降ろし横たえた。
そして体が冷えないように、そっと掛け布をかけてやり、ティーエ自身は寝台の傍に椅子を持って来て、そこに腰を降ろした。
小さな部屋でも、寝台の他にも椅子と机くらいはあるのだ。
椅子に腰掛けながら、ティーエはラクシの寝顔を眺めていた。
時折寝返りを打つ姿を見、微笑みながらも、心の中ではある葛藤と必死に闘っていた。
表面の凪と、内面の嵐。
ティーエは感情をある程度制御しているために、その内面の嵐が外界に反映される事は無いのだが―― もしこれが、
全ての感情を制御せずに解放していたのなら、今頃海は荒れに荒れていた事だろう。
ティーエの内面の嵐、それは欲情だった。
こうして眠る姿を見ていると、そしてここには他に誰も居らず、ふたりきりだという事を意識すると、
どうしても彼女の事が気になって仕方が無いのだ。
触れたい。
抱きしめたい。
その柔らかな肌に、顔を埋める事が出来るのなら…。
ティーエの記憶の中にある、ラクシの肌の感触を思い出し、ティーエは己の身体が熱く火照って来るのを感じていた。
自分は一体どうしてしまったのだろうと、ティーエは思う。こんなにも、ラクシの体を求めて止まないなど―― まるで獣の
ようではないか。
ティーエはなるべくラクシの寝姿を見ないように顔を背け、己の中の熱を冷まそうと努めた。
だがティーエは気付かない。その熱は、一旦は冷める事があっても、胸の中に埋み火のように留まり、何かの起爆剤と共に、
何度でも蘇るという事を。
その起爆剤はラクシの寝顔であり、既に熱は冷めるはずは無いという事を、ティーエは自覚していなかった。
埋み火は、既に燃え上がり、焔となったのだ。
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(2007年01月24日)
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