<蜂蜜酒をふたりで・1>




アステ・カイデの港を出てから1週間。
アドリエへ向かう船の上で、ラクシは時間と身体を持て余していた。
これといって、するべき事が無いからである。

身重のマンレイドは、船旅のせいか、たまに悪阻を催す事があっても、それ程重症でもなく、 まして優秀な薬師であるティーエが同行しているのだ。何も心配する必要は無かった。
妊娠中でも服用出来る薬を調合し、マンレイドに呑ませる。ただ、それだけの処置で、 マンレイドの健康管理は問題が無かった。
ラクシといえば。
初めのうちこそ、身重の気分はどうかやら、生まれて来る子供の事についてやら、 興味津々の体でマンレイドに訊いていたのだが、本来は身体を動かすのが好きな彼女の事である。
訊く事が無くなってしまうと、甲板に出て、軽く剣の自主稽古をしているようだった。
ラクシは、身体が鈍る事を酷く厭う。それはマンレイドに関しても言える事であるのだが、 マンレイドの方は妊娠中であるために、出来るだけ危険な行動を避けている節があった。
そのため、ラクシはひとりで、甲板で鞘に収めたままの剣を振り回している事になる。

そんな彼女の様子を、船縁に肘を付いて眺めているのが、世界の相を持つ美貌の薬師…ラクシの恋人でもある、 ティーエだった。

ラクシの動きに見惚れるように、それでいてどこか愛しげな眼差しで見つめられている事に、ラクシ自身は気付いていない。
その事は、ラクシにとって、実は幸いな事であった。
もし、ティーエの左右の色の異なる双眸に、じっと見つめられている事を知ったのなら… 彼女は酷く恥ずかしがるからである。
それは剣の稽古が恥ずかしいからでは無い。ラクシの剣の腕は、かなり立つ。そして、動いている姿を見られるのも、 別段恥じ入るような事では無い。
ラクシが恥じ入る理由は、恋人であるティーエが、愛しげな真摯な眼差しで、彼女ひとりを見つめている、その事実なのだ。

深い翠色と、明るい紫色の、世にも稀な双眸。それこそが、ティーエが“世界”である証でもある。
だが、今となっては、そんな事はどうでも良い事になってしまった。ティーエは“世界”としての役目を果たし、 その使命を全うしたからだ。
だから、ここに居るのは、世にも稀な双眸を持つ、うっとりするように美しい、ひとりの青年。
そして、その彼は彼女の恋人でもあり。
そんな綺麗な瞳に、熱っぽい眼差しで見つめられて、恥じ入らない乙女の方が、珍しいのではないだろうか。


「疲れませんか?そろそろ休んだらどうです、ラクシ」
潮風に長い髪を弄らせながら、ティーエは何気なくラクシに話しかける。
突然背後から掛けられたその声に、ラクシはぎくりとして振り返る。気配を、全く感じ取れなかったのだ。
ラクシの目線の先にいたのは、紛れようも無い彼女の恋人だった。
「…おまえ、居たの?」
「ええ、ずっと」
「…いつから?」
「あなたが剣の稽古を始める前から、ずっと」
ティーエはさらりと答えたが、実はこれは嘘だった。
ラクシが自分に割り当てられた船室を出て、甲板に向かう気配を察して、ティーエは自室で本を読んでいたのを中断して、 甲板に出て来たのである。
その理由は至って単純だった。
愛しい恋人の、活き活きと動くその姿を、少しでも長い時間―― 見つめていたかったからなのだ。
それに比べれば、読書など、ただの暇潰しにしか思えなかった。

そのティーエの言葉の嘘を真に受けたラクシは、見る見る間に顔を赤らめる。
ずっと、見られていた。この、美しい恋人に。しかも…その気配に気付かないなんて。
あまりの恥ずかしさに、ラクシは頭を抱えて蹲った。そのラクシに、ティーエは歩み寄り、抱き上げるようにして立たせる。
その際に、ティーエはラクシの額に浮かんだ汗を、そっと自分の服の袖で拭ってやっていた。
何気なく頬に添えられたティーエの手を、ラクシは無理やり引き剥がそうとしたが、 反対にその手を握られてしまい、ラクシはただ狼狽えるしかなかった。
「…素直じゃないんですね、あなたは」
「離せってば」
「わたしとふたりきりなのに?…そんなに、わたしが嫌いですか」
ラクシの目を真っ直ぐに見つめたまま、ティーエは真顔で言う。
こんなのは卑怯だと思いながらも、ラクシはそこまで自分の心に嘘をつく事が出来ず、力無く首を振った。
「…ティーって、ずるい」
「わたしが?」
「おれの心の中が筒抜けなのに、わざとそういう事訊いてくるなんて…」
あまりにも素直に降参するラクシに、ティーエは少々困ったように笑った。
「そんなつもりで言ったのではありませんが…すみません」
困ったように微笑むティーエを見つめていると、ラクシは怒る気にもなれず、仕方なく恋人の肩に頭をもたれ掛ける。

剣の稽古は、本気で行う程、実は疲労が溜まるものなのだ。もっとも、稽古といえども、 今まで彼女が本気で無かったことなど、一度も無かったのだが…。
それに加えて、こっそりと見られていた、という事実がある。好きな人に、ずっと見られていて、 しかもその気配に気付かなかったのだ。
そのふたつの事が、ラクシをいつも以上に疲れさせていたのである。
「…なんか、疲れちゃった」
素直すぎる程に本音を吐いたラクシに、今度はティーエが驚く番だった。
今までに、ラクシがこんなに素直に、弱音を吐いた事があっただろうか。
意地っ張りで、それでも愛しくて堪らない、自分だけの恋人は…そうそう簡単に弱音を吐く娘ではない。
もっと自分に洗いざらい何でも言ってくれたら良いのに、とティーエは常日頃から感じていただけに、 このラクシの思いがけない発言は、嬉しいような、それでいて、どうしたら良いのか分からないように感じられた。
ティーエはおそるおそる両腕を伸ばし、ラクシの身体をそっと抱きしめる。
すらりとしていて、それでも華奢な骨格のその身体は、ティーエの腕にすっぽりと収まった。
無駄な肉の全くついていない体。
しかしそれでも、女性らしい柔らかな曲線を描くようになってきた乙女の体。

ティーエはこの体を、実は隅々まで“知って”いた。
だが、どれ程深く入り込んでも…彼女の本当の姿を、完全に知ることは出来ないのだと、ティーエは感じざるを得ない。
こうして抱きしめているだけで、ラクシの心の戸惑いに触れる事が出来る。その戸惑いの中に隠された、 恥じらいと喜びを感じる事が出来る。
だがそれでも、本当に彼女を理解する事は出来ないのだと、ティーエは歯痒く思うのだ。
知る事が出来るのは、彼女の肉体の感触と、こうして流れ込んでくる意識だけなのだ。
もっともっと、ラクシの事が知りたい。
それは、世の恋人が抱く、ごく普通の感情だった。
けれど、“人間”になったばかりのティーエには、それは自分でも驚くべきものであり、 その感情を、彼は持て余してしまう
どうして良いのか分からない。
直接訊く訳にもいかず、ティーエが悶々とした気分を抱え込んでいると、ふいに腕の中のラクシが、 ティーエの肩に頭をもたれ掛けたまま、ウトウトと睡魔に襲われているではないか。
こんなに甘えた姿を見せて、あなたは一体どういうつもりなのだろう。
滅多に見ることの出来ない、恋人の甘え切ったその姿に、ティーエは少なからず狼狽し、混乱した。
けれどその混乱の渦の中に叩き落とされた思考でも、この状況ですべき事はただひとつである事くらいは、 流石にティーエでも判断出来た。
…眠りに落ちつつある恋人を、寝台に運ぶ事であるのだと。


眠りに落ちつつある人間の体は、ある意味とても重く感じるものである。
意識のある状態よりも重く感じられるのは、運ぶ側に、起こしては気の毒であるという意識が働くためもあるかもしれない。
それ故に、ティーエは睡魔に意識を委ねつつある恋人の体を、両腕で抱き上げ、運ぶ事になった。
起こさないように、細心の注意を払いながら。
抱え上げたラクシの顔を、ティーエが覗き込むと、ラクシは伏せた瞼を僅かに震わせた。
長い睫毛が動く様に、ティーエは自らの心拍数が跳ね上がるのを感じた。
いつも、すぐ傍で見ているはずの、恋人の寝顔。それなのに、こんなにも胸が高鳴り、 落ち着かなくなるのは何故なのだろう。
滑らかな額に唇を落とし、それから花弁のような小さな唇にそっと口付けながら、昂ぶる気持ちを懸命に抑えつつ、 ティーエはラクシに宛がわれた船室に彼女を運んだ。
いつもは気にも留めないような波の音が、ティーエの耳には、妙に大きく響いた。


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(2007年01月22日)







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