<蜂蜜酒をふたりで・6>




目が醒めると、隣に恋人の姿は無かった。
ひとりで眠る寝台は妙に広く、寒々しく感じる。
ラクシは急いで起き上がり、衣服を手早く身に纏うと、船室の扉を開けて外に出た。
まだ、夜明けまでには時間がある。眠りに就いていたのは、ほんの少しの時間だったらしい。
その短い時間の中で、ティーエもまた浅く眠り、そして部屋を出て行ったのだろう。
せめて自分が目覚めるまで、側にいてくれても良いものを―― とラクシは内心舌打ちしたい気分になったが、朝まで褥を共にしていた事を知られたくない恥じらいが、 ティーエの中にまだあるのかもしれない…と思い直した。
ティーエはラクシに、素直では無いと言うけれど、ティーエだって似たようなものではないのか、とラクシは思う。
自他共に認める恋人でありながら、ラクシを熱烈に求めてくる時もあれば、妙に余所余所しく振舞う時もある。
素直じゃないのは、多分お互い様だ。
ラクシは甲板に出て、ゆるりと辺りを見渡した。そして―― 船縁に恋人の姿があるのを認めた。
足音をなるべく立てぬよう、ゆっくりとティーエの傍に近づいて行く。あともう少し、というところで、ティーエはこちらを見もせずに、 ラクシ、と小さく囁くように名を呼んだ。
ラクシは心臓が飛び出そうな程驚いたが、表面にそれを出さぬようにしてティーエの隣に立つ。―― 心の裡など、どうせティーエにはお見通しなのだろうけれど。 それでも吃驚した表情を見られるのは癪だった。
―― おまえ、寒くないの?」
「あなたこそ―― 冷えますよ」
ティーエの長い髪が風に弄られてなびく。暁の光に照らされた金茶色の髪は、黄金とも言えぬ不思議な色合いに見えて、ラクシは思わず見惚れた。
「何にも付いてませんよ、わたしの顔には」
ティーエは薄く苦笑を浮かべると、再び視線を水平線の彼方に戻す。その色違いの瞳は、何を見つめているのだろう…アドリエ王国なのか、 それとも慕わしき伯母の面影なのか。
ラクシはティーエの横顔を見、そして自らも大海原に目を遣った。
太陽が水平線の彼方から徐々にその姿を現して来る。その金色を見つめていると、ラクシの脳裏に、ひとりの人物が呼び起こされてくる。
―― かつて、名ばかりとは言えど婚約者であった、今は亡きアドリエの若き先王イルアデル。ティーエにとっては魂の双生児であった存在。
その面影を思い出すと、ラクシの双眸から自然に涙が溢れ出ていた。
恋慕と呼べるような好意などは、無かった。けれど、その身が、境遇が、気の毒で堪らなかった――
泣いている事を、ラクシは隠そうとしなかった。ただ静かに涙を流しながら、海を見つめていた。
この海の向こうに、そう遠くない向こうに、アドリエがある。
そこに足を踏み入れた時、自分はどうなってしまうのか。ラクシの心は乱れた。
そんなラクシの肩を、ティーエは黙って抱き寄せた。後ろから抱きすくめられる格好になって、ティーエの吐息が耳に掛かる。
吐息交じりに、ティーエはラクシに囁く。
―― あなたが考えていた事と、おそらく同じ事を…わたしも考えていました」
「……」
「あの金色。太陽の黄金…あの方と同じ、黄金色」
「ティー…」
ラクシは振り向きこそしなかったが、ティーエが泣いているのは判っていた。自分に触れて、その感情に巻き込まれたための涙では無い事も気付いていた。
ティーエも辛いのだろう。永遠に喪われた、魂の半身。黄金色に輝く、けれどもうこの世には存在しないひと――
ふたりは共に泣いた。亡き人を想って、静かに涙を流した。船は、順調にアドリエに向かっている。

「多分、今日中には到着するのではないか、と踏んでいます」
「もう…着いちゃうんだね」
涙が乾いた後、ティーエは再び海に視線を遣りながら、他人事のように呟いた。
身重のマンレイドの事を考えると、少しでも早くアドリエに到着した方が良いのは判り切っている。それに、アドリエには慕わしい女性がいるのだ。 ティーエの伯母である、あの巫女王システィリナが。
けれど、同じように慕わしく、今は亡き人の面影も思い起こされるのだ。それは辛くて仕方が無い。だが、その事を何時までも引き摺っている訳にもいかない事を、 ティーエもラクシも承知していた。
いつか、逢える。きっと、逢える。今まで別れて来た人々全て、きっとまた再会出来るはずだ―― 魂の行着く先で。
ティーエはラクシを抱く腕に力を込めた。後ろからしっかりと抱き締めて、ラクシの耳朶にそっと口付けを落とす。
その耳朶が見る見る間に紅く染まるのを微笑ましく眺めた後、ラクシの身体の向きを変えて、今度は正面からそのふっくらとした小さな唇に口付けた。
太陽の位置が、少しずつ上へと移動してゆく。夜明けはもうすぐだ。


太陽が天頂に到達する少し前に、船は港に入った。
甲板に立つティーエの頬に、熱く乾いた風が吹き付ける。
その空気を胸一杯に吸い込み、ティーエは船から港を、そしてその先にある、白亜の都市を見遣る。
陽光を受けて白く輝く、大理石で出来た北の都市。
哀しみも憎しみも愛おしさも、全てここで覚えた。そしてかけがえの無い人であったイルアデル―― ティーエ自身の魂の半身である存在―― をも、ここで失った。
その都が、確かな存在感と威圧感を持って、目の前に佇んでいる。これこそが大アドリエ市―― アドリエ王国の首都が、ティーエの記憶の中のそれと寸分違わぬ姿で、 そこにあった。
大地が滅びようとした災厄を乗り越えても、街の姿は変わらない。その事に少々複雑な思いを抱きつつも、ティーエはある種の感慨に浸らずにはいられなかった。
―― 戻って、来たのだ。北部地方、ティーエの生まれ故郷に程近い都市に。ティーエの故国を滅ぼした国に…。
港を行き交う人々の喋る言葉が、風に乗ってティーエの耳に届く。懐かしい、北部地方の訛りの言葉だ。
ティーエもラクシも、生まれは北部地方だった。だからこの訛りはひどく懐かしい。南部にある大陸の要、太陽帝国では、標準語を使っていたのだから、 余計に懐かしく思うのかもしれない。
「戻って…来たんだね、本当に」
「ええ」
隣に寄り添うように立つラクシが、ティーエの耳にやっと届くような小声で、そう呟いた。ティーエは頷きながら、震えるラクシの手を己のそれで握り締める。
懐かしい、けれど複雑に思うラクシの震える心の裡が、繋いだ手を通じてティーエに伝わってくる。その感情は不快なものでも何ともなく、 むしろティーエの感じていたそれと良く似ていたものだから、彼は少々の驚きと共に、奇妙な嬉しさを感じてもいた。
愛しいひとと同じものを見、同じ思いを抱く事。その内容がどうであれ―― その事自体がこれほどまでに嬉しく感じるとは、ティーエは思ってもみなかったからだ。
(魂の対―― ようやく巡り逢えた、たったひとりのひと。わたしの、運命のひと…最愛のひと)
握り締めた恋人の手に、愛しげに頬を寄せ、ティーエはラクシにそっと囁いた。
「あなたは何も心配する必要は無いんです。不安なのはわたしも一緒だから。―― だから、どうかわたしの手を離さないでいて下さいね。 あなたの事は、わたしが―― 必ず、守りますから」
いつもは不思議な雰囲気を纏っている緑と紫の双眸が、はっきりとした強い意志を宿し、ラクシを見つめていた。


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(2008年10月16日)







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