<疑惑>
巫女王レイトリンと別れ、大祭司カリスウェンとも別れて、仮住まいをしている第六侯家に帰る途中、
ティーエはずっと物思いに沈んでいた。
『過去は戻せない、戻れない』
…確かに自分は、レイトリンに向かってそう言った。そして、レイトリンもまた、淋しそうではあるが、
それを認めてくれた。
だが、それは果たして彼女の本心だったのだろうかと、疑問に思うのだ。
互いの心が通じ合わない今となっては、互いの言葉のみが、心を伝える唯一の手段である。
以前は、触れ合うだけで、互いの思いが伝わったものを…。それを思うと、ティーエの心もやや重く沈んだ。
レイトリンの瞳は淋しそうではあったが、澄んでいた。
そして、口に出しこそしなかったが、常にティーエに問い掛けていた。
何故なのかと。
何故、突然に心変わりをするようなことがあったのかと。
何故、自分ではそれが駄目だったのかと。
確かに、彼女の側からしてみれば、ティーエの取った行動は、突然の心変わりにしか見えなかっただろう。
それは容易に想像がつく。
けれども、途中で気付いてしまった自分の本心に嘘もつけず、ティーエの心はラクシを求めた。
何故。何故、それならば、レイトリンに惹かれてしまったのだろうか。
魂がとても近しいから?良く似た魂に、惹き寄せられたから?
…違う。
それだけならば、あれほどまでに恋焦がれ、彼女を欲した、自分の心は何だったのだろうか。
ひとを想う理由など存在しないと解っていても、ティーエには自分の心が掴めなくなっていた。
認めてしまえば楽だったのだ。
あのとき…確かに、自分はレイトリンに恋をし、焦がれ、そして彼女を求めた。その事実を、過去を、
認めてしまえば良かったのだ。
だが、ティーエの心は、その過去の事実を必死で否定しようとする。
あれは、何かのまやかしのようなものだったのではないだろうか、と。
魂が似ているが故に、恋と勘違いしたのではないだろうか、と。
どんよりと曇りがちになった空の下、ティーエは歩調を速めながら、第六侯の屋敷に向かって歩いていた。
「おかえり」
玄関先で出迎えてくれたのは、執事ではなく、意外なことにラクシだった。
ティーエが帰って来るのを待ち侘びていたような、そんないじらしい行動に愛しさを感じ、
ティーエはラクシの身体を軽く抱き締めた。
人目をきにしない行動に、ラクシは頬を膨らませてみせたが、それは照れによるものであることは、
ティーエには解っていた。
ふたりきりのときは、ラクシは意外なほど素直に、彼女の本当の素顔をティーエにさらけ出す。
恋する乙女の顔、愛しい恋人の顔。そして、気品ある姫君としての顔。
そのどれもが、ティーエにとって愛しいものだった。ラクシの全てが、愛しかったからだ。
「ティー、どうだったの…例の件は」
「ええ、無事に終わりましたよ」
「大祭司さまも、巫女王さまも、お出でになったんだろ」
ラクシの言葉と表情に翳りが差す。大祭司さまというのはカリスウェンのことで、巫女王さまというのは、
無論レイトリンのことだ。
以前なら、カリスウェンのことを名前で呼んでいたラクシが、妙によそよそしく“大祭司”という言葉を使ったことに、
ティーエは彼女の心の揺れを感じ取った。
触れ合っているのだから仕方ない。恋人の、切なく揺れる心までもが、手に取るようにティーエには解ってしまう。
それが、妙に息苦しく感じて、ティーエはラクシの身体をそっと離した。ラクシも特に、抵抗はしなかった。
ラクシの心の中の翳り。
それはかつて恋し焦がれたカリスウェンに対する複雑な感情と、レイトリンに対する僅かな嫉妬。
彼女も、同じように感じていたのかと思うと、ティーエはやるせない気分に陥った。
何故、あのとき。
自分たちはそれぞれ、違う相手に心惹かれたのだろうか。
それが今もなお、互いの心に翳を落とす事など、最初から判りきっていた話ではないか。
何故、何故、何故。
それは一時の気の迷いでも何とも無く、その時胸に抱いた感情は、本物だったのだから。
だからこそ、解らなくなる。
今、互いを求めるこの心は、本当のものなのだろうかと。
「おふたりとも、お変わりになってなかった?」
先に沈黙を破ったのはラクシだった。表情と瞳に翳りは残っていたけれども、出来るだけ健気にそれを勘付かせまいと
しているラクシの姿は、ティーエには眩しかった。
このひとは、どこまでもわたしより、前向きに生きるひとなのだ。
このひたむきさに、わたしは応えることが出来るのだろうか。
わたしを選んだことが、あなたにとって、間違いではなかったのだろうか…?
ティーエはそっと目を伏せる。その様子に、ラクシはティーエの顔をそっと覗き込んだ。
壊れやすく脆いものを扱うように、そっと、気遣わしげに。
身体に触れずにいてくれたことが、ティーエにとってはとても有難いことだった。
今の自分の心を、読まれてしまうような気がしたからだった。
「お変わりになった印象は、受けませんでした」
「そう」
会話はそこで途切れてしまう。続くはずが、無かった。
互いに後ろめたい気持ちを抱えていてもなお、何事も無かったかのように振る舞えるほど、
ティーエもラクシも、生きる事に器用ではなかった。
時として、生きる事に不器用であるという事は、悲劇を招く。
互いに不信の念に駆られ、堅く結ばれた糸でさえも、ぷっつりと切れてしまう事さえ招きかねないのだ。
どれだけ相手を信じ抜くことが出来るのか。
ティーエにも、ラクシにも、その確たる自信は無かった。そして、相手をなじることも、出来なかった。
せっかく巡りあえた相手なのに。
この世で、堅く結ばれた、対となるはずの魂なのに。何故、信じ抜くことが出来ないのだろう。
未だに、後ろめたさを拭い去ることが出来ないのだろうか。
…それはもしかすると、この気候が悪いのかもしれない。かつてこの地で、この屋敷で。
ティーエはレイトリンに惹かれ、ラクシはカリスウェンに恋をした。
その土地が、過去の後ろめたさを忘れさせてくれないのかもしれなかった。
この都市を、離れる時が来たのかもしれない、とティーエは思った。
そうでなけれは、自分が自分を保てなくなってしまいそうで。
せっかく自覚した、ラクシへの愛情ですら、自分で疑いを持ってしまいそうで。
「ラクシ、…」
「何」
「あなたの兄君は、わたしが治して差し上げられるのでしたよね」
「おまえの腕なら、たぶんね」
「なら、それは早い方が…良い」
「そう、かもね」
「それに、マンレイドの身体のこともありますし、砂漠を妊婦が旅するのは、あまりに過酷かもしれない」
「…うん」
互いに、表向きの理由だけで言葉を交わした。
ティーエもラクシも、この都市を離れるべき本当の理由など、とっくに気付いていたのだ。
だがあえて互いに口には出さない。それはおそらく、同じ事を考えているからだろう。
繋いだ指先を、せっかく手繰り寄せた糸を切らせないためにも、この都市に長居することは、良い事とは思えなった。
「あなたの故郷で、あなたの兄君を治療して…そして」
「自然だけは豊かだから、ティーがいてくれると、皆きっと喜ぶと思う」
「ええ、…ええ、そう、思いたいです」
ティーエはラクシの身体を再び抱き寄せる。ラクシもティーエの背中に腕を回し、しっかりと抱き返す。
ふたりの瞼の奥に浮かぶのは、森に守られた小さな隠れ里。だが、その小さな隠れ里は、とても輝かしく見えて。
とても、懐かしい匂いがした。
この土地を去ろう。そして、新しくやり直すのだ。
愛しているというこの心が嘘でないことを確かめるためにも。
そして、これから先、ずっと共に生きていくためにも。
ティーエはこの日、初めて温かい涙を流した。ラクシもまた、腕の中で同じように泣いた。
外には、柔らかで優しい雨が、降り始めていた。
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「たとえばそんな未来があったのなら」の続編です。
風の大陸の登場人物は、何故か”なじる”という行動を取りません。
相手の突然の心変わりに対し、なじったり詰め寄ったりするわけでもなく、悶々とひとり苦しみます。
普通の人間ではあり得ないことです。詰め寄ったり、なじったりする方が、生きる上において楽であるからだと
思います。
心の中に全てを抱え込むと、人間というものは非常に脆いものになってしまうのです。
精神のバランスを保つ事すら、困難になるはずなのです。
故に、人は怒り、悲しみ、そして笑う。
感情を表に出すという事は、自分を保ち護る上で必要なことだと思うのです。
『清らかでそんな醜い感情は知らない』が良い事だとは思えません。
清濁全て認めてこそ、人間だと思えてならないのです。
(2006年09月15日)
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