<「世界の相」に対するひとつの考察> 〜「世界の相」は「兵器」であるのか 〜




こちらのサイトでは初めての真面目なコラム?になります。
これは考察的なものであり、あくまで個人の見解です。不快に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それでも構わないと言うのであれば、お付き合い頂けますか。
本館(「ねこのすみか」)では、ティーエ関連のコラムを二点程書いていますが、今回はティーエ限定の考察になります。
※ちなみに、以前のコラムです。
 『「世界の相」について考えてみる』『永遠のナギ節』…別ウィンドウが開きます。読み終わった後はウィンドウを閉じて下さい)
 興味のある方はどうぞ。


それでは本題に入ります。
最初に一言、はっきりと言ってしまえば、「人間兵器論」になります。人間兵器というのは、この場合「世界の相」を持って生まれて来たティーエの事を指しています。
いきなり「世界の相」=「人間兵器」と言ってしまうのは語弊もあり、また非常に誤解を招く言い方・書き方ですが、最終巻「祈り」におけるティーエの印象と、あるゲームの主人公の印象を重ね合わせた結果、このように書いた次第です。

そちらのネタ元になったゲームのコンセプトは、「生まれた意味を知る…」だったのですが、結果は非常に陰惨です。
生まれた意味=兵器になるために生み出された、というものですから。
なので、そのゲームの主人公とティーエの状況が全く一緒であるとは思いませんが、似ている部分はあると感じました。

「風の大陸」における「世界の相」とは、世界(大陸)の命運を握る者…として定義されていますが、これは「偶然その時期(大陸の一大事)に生まれる」存在であって、人為的に生み出された存在ではありません。なので、ティーエは「世界の相」という運命の下に生まれた人間という事になります。
ただ、少々気になる点が、ティーエの祖父がケイローンから「お前の孫に世界の相を持つ者が生まれる」という予言を与えられていた事なのです。
つまり、運命に定められて、ティーエは「世界の相」として生まれて来たという事になります。
ティーエの出生は、運命の歯車の中に存在していた、という事でもあります。

そして、予言通りにこの世に生を享けたティーエは、ケンタウリ族の掟破りのケイローンによって育てられます。
ケイローンの目的は、「世界の相」を育て上げ、外界に送り出す事。最初、ケイローンは予知の才により、ティーエの辿る運命を教えてはくれませんでしたが(それを愛情ゆえに、という描写で描かれていますが)、ケンタウリであるケイローンが、一族の掟を破ってまで、人間であるティーエを育てたのは、単に愛情と使命感から来るものでは無いでしょう。
最も現実的な言い方をすれば、「世界」であるティーエが大陸を救う事により、自分達ケンタウリが生き延びるため…というのが、理由になるでしょう。
ただし、そこにフォローが入るのであれば、ケイローンはティーエを17年間育てる事により、情がうつり、愛情を持って育てたという事でしょうか。これはティーエにとって、ひとつの救いとなります。

ティーエはケイローンに絶対服従の姿勢をとっていました。言い方は大変悪いですが…。
ただ、ケイローンを疑った事は無い。これは事実です。この状態は妄信とも言えるでしょう。一歩間違えば…そう、ケイローンに騙されたならば、自分自身が人間であるという意識の薄い状態のティーエは、人間を皆殺しにしろと命じられれば、それを実行していたかしれないという事にもなります。
それを、「人間兵器」と言います。しかも、人間兵器になり得るのは、他人を疑う事を知らない、無垢で無知な存在である事が必須となります。
(山を下りて来たばかりのティーエは、大陸の実情を知らない「無知」の存在です。知識だけの、人間としてはゼロの状態です)


最終巻、ティーエはケントウリの真相を知る事になってしまいますが、それは既に「人間として着実に歩み出した」ティーエにとって、自分の存在は「人間兵器」であると突きつけられたも同然の事であったと思われます。私にはそう感じられましたが。
大陸を救う事が使命と言い聞かされて、ずっとその使命を全うするために、必死に足掻いてもがいて苦しんで、突きつけられた現実。
ケントウリの持ち込んだ「水晶」によってもたらされた大陸の危機を救うための、自分という存在。しかも、ケントウリは宇宙人である…酷い現実に対し、ティーエはそれまで反論などした事も無いのに、ケントウリに向かって噛み付きました。

当然の事になるでしょう。いくらケイローンやジヌーハが、愛情をティーエに示しても、それは結局「役に立つモノは愛しい」という感覚の下に行われた、人間とは次元の異なる、ある種の偽りの感情表現なのですから。
そういえば、原作中において、ケイローンは殆ど感情を露わにしないとありましたね。それが、「見せかけの感情」の裏付けになっているようにも思えます。

結局、ティーエは上手く丸め込まれてしまったため、ケンタウリ族に対して復讐するという事にはなりませんでしたが、個人的には、あの場面の描写はもっと細かくても良かったのではないかと思うのです。
ティーエにとっては、自分と存在に関わる話であり、ケントウリに良い様に操られていたかもしれないという疑問を抱いていたシーンでしたので、「愛情だけは信じてくれ」の一言であっさりと片を付けられたのは、非常に残念です。もっと書き込んで、ティーエという人間の存在価値について、ケントウリ族と「闘って」欲しかったというのが、個人的な感想でもあります。
ケントウリ族にとって、大陸の崩壊=ケントウリという種族の滅亡、だったのですから。要は、彼等にとって「世界」は誰でも良かったのですから。
だからこそ、その点を「世界」であるティーエと、災厄の元凶であるケントウリは対決すべきだったと、私は思うのです。
結論(この場合、大陸を救うということ)に辿り着くのは、その後でも良かったと、個人的に思うのです。時間的余裕が無かったと言われればそれまでの話ですが(苦笑)。


人間はこの世に生れ落ちた時から、存在する意味が生じますが(存在するという事自体は、どのような生物でも同じ事ですが)、「生まれて来た意味」を持つ者は不幸だと思うのです。何故ならば、普通の人間は「生まれる→生きて行く意味を持つ」ですが、「生まれて来た意味」を持つ者は、「運命によって定められた使命を全うするために生まれる」のですから。そこには、個人としての自我や幸せを求める自由は存在しないのです。その「役目」を全うしない限りは。

その意味で、使命を全うした後、ティーエが「世界」という役目から解放(されたであろう)事は、非常に幸せな事だと思うのです。
これからは、自分の意思で地に足を付け。人並みの幸せや存在価値を見出して行く事が出来るのですから。
ティーエは「人間兵器」ではありますが、その定めから逃れる事の出来た幸福な人間であると、私は思います。


よく分からない語りにお付き合い頂き、有難うございました。

(2006年5月8日)




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